LOGIN昨日波瑠は、会社の飲み会に参加していた。
そして、座席の隅の方で、ひっそりと飲んでいた。「黒岩課長! おめでとうございます!」
「生まれたのは、女の子ですよね?」 「三人目なんて、すごいなあ」 「奥さんと仲良しですよね。インスタ見ています!」 「奥さんも美人で、娘ちゃんたちもかわいいですよね」 「羨ましいなあ」 場の中心となっているところで、課長の黒岩が、皆に三人目の子どもが出来たことを祝福されていた。 波瑠は、顔を真っ赤にしてまなじりを下げている黒岩を横目で見ながら、次々に酒を飲んだ。飲み放題なので遠慮なく飲み続ける。「おめでとうございます!」と皆が拍手したときは、一応皆と一緒に拍手をした。少し笑顔も見せてみた。 だけど、あの祝福の輪の中に入って、「赤ちゃんの写真見せてください! きゃー! かわいいですねえ」などとやることは出来なかった。なぜならば、波瑠は、黒岩とつきあっているから。
――いや、もう「つきあっていた」、かな。 もうこんなの、嫌。耐えられない。別れる。今すぐ。いいや、もう、別れた! 波瑠は暗い思いを晴らすように飲み続けた。この次は日本酒にしよう。悪酔いしても構わない。いや、悪酔いしてしまいたい。 不倫であることは、最初から分かっていた。だけど、愛されているのは自分だと信じていた。奥さんには気持ちはないと。娘はかわいいけれど、奥さんはもう「娘の母親」でしかなく、性的関係もないと。――そう、確かに言っていた。それが何? 三人目が生まれた? どういうことなの、いったい。結婚がしたかったわけではない。
そもそも波瑠には結婚願望はなかった。しかし、恋人がいる幸福感は好きだった。好きという感情で包まれるあの感じは波瑠の渇きを癒した。だから、ずっと恋人が切れ目なくいた。 黒岩とは、新卒で入社して一年くらいしてからつきあい始め、気づいたら三年経っていた。つき合い始めたころのような情熱がないのは分かっていた。でもその代わりに親密な情みたいなものがあると、波瑠は思っていた。身体を求められるのも嬉しかった。愛情があると信じていたから。 ――だけど、身体だけだったのかもしれない。 皆に祝福され、赤ちゃんや娘たち、そして奥さんの写真を見せながら幸せそうな顔をしている黒岩を見て、波瑠は、しみじみ、自分だけが愛のある恋人同士だと思っていたのだ、ということに気がついた。「嫁とはうまくいっていないんだよ」などという戯言を本気にした、自分が馬鹿だったんだ。波瑠はそう思い、またグラスを空けた。黒岩は波瑠の上司で、波瑠より一回り近く年上で、しかし若々しい見た目で仕事が出来て――結婚していても密かに憧れている子も多かった。
……もしかしたら、憧れている皆に対して、優越感みたいなものがあったのかもしれない。 波瑠は黒岩を取り巻いている女性たちを見た。 「黒岩課長、かっこいい! つきあってくれないかしら」と言っていた、後輩の女の子もいた。「つきあってくれないかしら」と言ったその口で、「娘ちゃんたち、ほんとうにかわいいですねえ」と言う、その気持ちが波瑠には分からなかった。波瑠はその輪には決して加わらず、ひたすら一人で飲み続けた。 「二次会、行かないの?」 行けるわけがないと思いながら波瑠は「うん、今日は帰る」と、皆に手を振って駅へと向かった。 瞬間、黒岩と目が合った。 職場の飲み会のときは、いつも二次会に行き、二次会の途中でこっそりと抜け出して落ち合い、ホテルに行って抱き合うのが常だった。職場の飲み会とは、波瑠と黒岩にとってそのような意味合いを持つものだった。 黒岩の目は不思議そうな色を呈して、波瑠を捉えた。 ……今日はしないのか? どうして帰るんだ? 波瑠はそれを無視して、足早に立ち去った。 背中に視線が突き刺さっているような気がした――だけど、気のせいかもしれない。最寄り駅からはタクシーを使う。
バスはとうに終わっていて、駅から歩くとなると距離もあるので夜遅くなるときはいつもタクシーを使った。 波瑠はタクシーに乗り込むと家の場所を説明し、目を閉じた。 寺社があり緑があり、袋小路もある狭い風情ある町を、波瑠を乗せた車は走って行った。……黒岩は本当に、今日も私と会うつもりだったのだろうか? あんなふうに出産のお祝いをされた後で?
――信じられないわ。 私は今まで、彼の何を見ていたのだろう? 人気のある上司に誘われて嬉しくて食事に行った。それが始まりだった。当時ちょうど恋人と別れたところだったので、なんとなくつきあい始めた。 ……ちゃんと好きだと思っていたし、好きでいてくれると思っていたんだけど。 終わりね。 恋の終わりは急速に訪れるときがある。今回もそうだ。一旦冷えた気持ちは戻らない。 波瑠はスマホに残る黒岩とのやりとりを全て消去し、それから彼をブロックした。 これでいい。 ブロックすると、相手がストーカーになるとかいう話も聞くけれど、黒岩はきっと不倫相手に困ってはいない。冷静に考えれば、相手は私だけじゃなかったかもしれない。 波瑠はそんなふうに考えた。 ……なんか疲れちゃったな。目を閉じると、急速に酔いがぐるぐると襲ってきた。今更だが、飲み過ぎたことに波瑠は気がついた。そもそもそんなに強くないのに、あまりに腹立たしくて、うっかり飲み過ぎたのだ。
ヤバい、気持ち悪くなってきちゃった。くらくらする。 ああでもよかった。もうすぐうちだ。 家のすぐ前までは道が狭すぎて行けないので、少し手前でタクシーを降りる。藍色の不透明な夜がすっぽりと辺りを包み込んでいた。
狭くて車が入れない私道を、波瑠は歩く。歩いているうちに酔いが足元まできているのが分かる。ぐらぐらする、歩けない。 十一月の夜は肌寒く、木々を風が抜けてかさかさと落ち葉が舞っていく。 やっとの思いで家に辿り着いた。 山茶花の生け垣を見て、波瑠はほっとした。早く家に入ろう。寒いから、まずは暖房をつけよう。――あれ?
よく見ると、玄関のすぐ脇に何かがあった。――人? 人がうずくまっている?「あのう」
波瑠はそのうずくまっている人に近寄って、声をかけた。うずくまっているし、暗いので顔もよく分からないけど、若い子であるような気がする。 「あのう、ここ、普通の民家なんです。お寺とかじゃないんですよ?」 寺社が点在するこの町は、観光客が散策をし、そしてときに個人宅の敷地に入り込んで来ることがあった。 声をかけても、その人物は、呻き声は出したものの動いて移動するということはなかった。すると、何か小さいものが動いた。 「にゃー」 声がした方を見ると、猫がその人物の傍らにいた。 「猫! 猫までいるの。かわいい! ふふふ」かわいいのはいいけれど、猫はともかくとしてこの人、この寒さでこのままここで寝ていたら風邪ひいちゃう。
……いいわ! 今夜一晩泊めてあげましょう!波瑠はふわふわした頭でそう考えた。
飲み過ぎて変なテンションになっていた。普段なら絶対にしないことだった。 恋人と別れて(一方的でも)、さみしかったのもある。 黒岩のことは忘れる! 私は猫を拾うんだもん。 波瑠は、半分動けなくなっているその人物を引き摺るようにして家に入れ、そして火事場の馬鹿力で玄関わきすぐに部屋に運び入れた。そうしたら、そこで力尽きてしまった。何しろ酔っ払いである。寒かったので、暖房を入れるのは忘れなかったが、あとのことは全部忘れて、そのまま寝てしまったのだ――波瑠が目を覚ますと、台所で何か音がしていた。ごはんを炊く音が聞こえたような気がする。今日の朝ごはんは何かな? と期待して、波瑠は布団の中で千颯が起こしに来るのを待っていた。 今日は千颯くんと水族館に行くんだ! と思うと、自然に頬が緩んだ。 楽しみだなあ。どの服を着て行こうかな。 ……昨日は、お母さんたちに会って、ほんとうに驚いたし、緊張した。真珠も琥珀も、私のことを慕ってくれていることも分かっている。だけど、実家に行くのは緊張するし、嫌なことを思い出すからつらい気持ちになってしまう。 ――でも。 今度実家に行くときは千颯くんと一緒に行けばいいんだ、と思うと、なんだかほっとする。それに、彼氏だって思われても嫌じゃないって言ってたし。昨日も今日もデートだし!「ふふ」 布団の中で、一人で思い出し笑いをしていると、「波瑠さん、ごはんですよ」という千颯の声がした。「はーい! 今行くね」 波瑠はベッドからするりと下りて襖を開いた。「おはよう、千颯くん」「おはようございます、波瑠さん。今日もいいお天気ですよ」「お出かけ日和ね!」 寝間着のまま台所へ向かうと、朝食が既に用意されていた。 ロールパンに、ゆで卵をマヨネーズで和えたのと、ハムときゅうりが挟まっていた。それから、キャベツのコールスローサラダ。ミルクコーヒーも準備されている。「おいしそう!」「さあ、食べましょう」「いただきます!」 波瑠はロールパンを一口食べた。ゆで卵の味とハムの塩味が、ロールパンのほのかな甘味と合わさって、日曜日の朝のお腹に染み込んだ。「おいしい!」「よかったです」「あ、でもね、朝、ごはんを炊く音がしたんだ。ごはんの炊けるにおいもしたんだよ。だから、今朝はパンじゃなくてごはんだと思っていたの」「あ、それは――内緒です」「内緒なの?」「……まあ、あまり内緒になっていませんが」 千颯の視線の先
「ねえ、あんまりお腹空いていないの」 家に着くと、波瑠はとても残念そうに言った。「そうですね。とんかつは結構ボリュームありましたし、あの後、甘い飲み物も飲みましたしね」 千颯はくすりと笑いながら言う。「うう。晩ごはん……!」「今日は食べるの、やめますか?」「いや、それは! 千颯くんのごはん、食べたいよぅ」 波瑠は、実家に一緒に行って欲しいと言ったときと同じ顔で千颯に甘えるように言った。それが嬉しくて、千颯はからかうように言う。「でも、お腹いっぱいなんですよね?」「ううん、ちょっとだけ食べれる感じ?」「……雑炊にしましょうか?」「ごはんちょっとで、野菜いっぱいだといいな」「今すぐ食べますか?」「うん、今ちょっとだけ食べたい」「じゃあ、今から作りますね」 千颯が台所に行くと、「にゃー」とキャンディがすり寄って来た。「あ、キャンディにかりかりあげるの、忘れていた。ごめんね」「にゃっ」 ふわふわの白と薄茶の毛並みの温もり。 キャンディに初めて会ったときの心細さを、千颯は思い出す。 あのとき、金茶の目が千颯をじっと見て、思わず抱き上げた。ウィンドブレーカーの内側に入れたら、あたたかくて。……キャンディと出会えてよかった。もし、あそこでキャンディと出会っていなかったら、僕は波瑠さんちに辿り着けていなかったかもしれない。「キャンディ、おいしい?」 千颯はそんなことを考えながら、懸命にかりかりを食べているキャンディの頭を撫でた。 それから、冷凍してあったごはんと、鳥ガラスープの素、水菜とえのき茸と卵で、簡単な雑炊を作った。「千颯くん、おいしい! 熱いけど」「火傷しないようにしてくださいね」「うん、大丈夫」 波瑠さんと一緒に食べるごはんはどうしてこんなに幸福なのだろう? 波瑠と一緒に住むようになって、千颯は、自分がこれまでどれほ
聖羅に会うことを心配していた千颯だったが、ばったり会ったのは、波瑠の家族だった。「波瑠、久しぶりね」「お久しぶりです」「元気だった? ちっとも来ないから」「元気です」「……そちらは?」 波瑠の母親は千颯に視線を向けて、そう言った。「あ、うん。今、一緒に住んでいるの」「え? ……そうなの」 波瑠の母親も驚いたようだったが、千颯はもっと驚いた。 ……その言い方だと、きっと彼氏だと思われてしまう。波瑠さんはどうして適当な嘘を言わなかったのだろう? いくらでも嘘が言えたのに。「お母さんも、お父さんも。それから、真珠も琥珀も元気?」「元気よ。変わりはないわ」 と波瑠の母親が言い、父親は頷き、高校生くらいの女の子の方が「今度高三になるんだよ、お姉ちゃん。琥珀は今度高二だよ」と言った。「二人とも、勉強頑張るのよ」「ねえ、お姉ちゃん、またうちに来てよ。真珠、話したいことがあるんだよ」「今度ね」「約束だよ。琥珀だって、お姉ちゃんに会いたいって思ってるよ!」 琥珀は真珠の横で少し照れくさそうにしていたけれど、波瑠に会えて嬉しそうなのが、千颯にも感じられた。「うん、分かったわ」 波瑠はそう言ってにっこりすると、またいくつかの会話を重ねた。そしてその後、「じゃあ、またね」と手を振った。「お姉ちゃん、またね!」 という真珠の声がよく響いていた。 波瑠の家族が視界から消えたと思ったら、波瑠が千颯の手を握った。「……波瑠さん?」「――緊張した……!」「波瑠さんの、お父さんとお母さんときょうだい?」「そうなの。……私、中学生になったときから、今の家でおばあちゃんと暮らしていたから、一緒に暮らした記憶が遠すぎて。……緊張しちゃうんだよね」「そうなんですね」 千颯は、波瑠が以前に「あの家には私の居場所はない」と言っていたことを、悲しく思い出していた。波瑠さんが家を出た理由は何だろう? ――いつか波瑠さんが自分から話してくれるまで待とう。「真珠も琥珀も大きくなったなあ。びっくりしちゃった。……何年も会っていなかったから」「またうちに来てよって、言っていましたね」「う~~~~行きたくない
本屋を見て服屋を見て。 その他、気になるお店を二人は見て回った。そして映画館のある階に着いたとき、波瑠は言った。「ねえ、千颯くん、映画観ない?」 千颯は、すぐに「いいですよ」と答えることが出来なかった。「あの……」「ん? 観たいの、ない?」「……そうじゃなくて、僕、暗いところが怖いんです」 千颯は思い切ってそう言った。波瑠は千颯の次の言葉を待って、千颯の顔を見て黙っていた。「……継母が夜中に僕のことを触っていて気持ち悪かった、と話したと思うんです」「うん」「頰を触られただけだけど、気持ち悪くて。僕、それ以来、夜眠るときはベッドをドアの前まで移動させて寝ていたんです。――入れないように。だけど、夜、ドアノブが、がちゃがちゃってすることがあって――だから、暗いところは……」 暗がりにいると、あの光景を思い出してしまう。 恐怖心と一緒に。 千颯が言葉を詰まらせると、波瑠は千颯の手を両手でそっと包み込むようにして、言った。「ごめんね、千颯くん、つらいことを言わせてしまって。……大丈夫よ、分かったから。映画はね、おうちで観ましょう」 波瑠は千颯の顔をまっすぐに見て、にこりと笑った。「波瑠さん」「暗いところはやめて、ごはん食べに行こう?」「……はい!」 二人は自然に手をつないで歩き出した。 波瑠の手から、あたたかい気持ちまで伝わってくるようだ、と千颯は思った。「ねえ、千颯くん。もしかして雨戸を立てずに眠ることが多いのも、そのせい?」「……ごめんなさい。雨戸を立てると、真っ暗になってしまって……怖くて。電気を点けたままだと、なかなか眠れなくて。でも、自然の月明かりならぐっすり眠れるんです」「じゃあね、これからは悪天候じゃない限り、雨戸は開けた
千颯はごはんを作るとき、いつも波瑠の顔を思い浮かべていた。 波瑠さんはどんな顔をするだろう? 喜んでくれるかな? 好き嫌いのない波瑠は、だいたい何を作っても嬉しそうな顔で「おいしそう!」と言ってくれるのだけど。そして、ほんとうにおいしそうに食べてくれる。 三月に入った土曜日、千颯は今日の朝ごはんは何しにようかなと考えていた。 最近、週末はのんびり朝ごはんを食べて、二人でゆっくりとコーヒーや紅茶を飲むことが多かった。その時間はとても穏やかないい時間だった。 買ってから少し時間が経ってしまった食パンが目について、千颯は、一瞬焼こうかと思ったけれど、ふとフレンチトーストにすることを思いついた。フレンチトーストを作るのは初めてだった。 波瑠さん、喜んでくれるかな。 ボウルに卵と牛乳と砂糖を入れて、よく混ぜる。それからそこに、四つに切った食パンを浸す。熱したフライパンにバターを入れて溶かし、そこに卵液に浸した食パンを手早く入れていく。残った卵液をパンの上にかけて、一緒に焼く。 焼き色がついたらひっくり返し、裏面も焼く。 あっという間に出来る、お手軽なフレンチトースト。 サラダを盛りつけ、フレンチトーストを乗せ、コーヒーメーカーをセットする。 それから千颯は波瑠を起こしに行った。 襖越しに声をかける。「波瑠さん、ごはんですよ」「はーい! おはよう、千颯くん!」 襖ががらっと開いて、波瑠が元気よく出て来た。 波瑠さんは、起きているけど、僕が呼びに来るのを待っているときがある、と千颯は思う。それは甘やかな思いだった。「おはようございます」「おはよう。ねね、今日の朝ごはんは何?」「フレンチトーストです」「フレンチトースト! きゃー、初めてね。楽しみ」 波瑠はスキップをする勢いで食卓へと向かう。波瑠の後ろから台所へ向かった千颯は、「おいしそう!」という波瑠の声を聞き、満足する。「千颯くん、私、フレンチトースト、好き」「波瑠さんは好きなものが多いですね。これ、
遅い時間に朝ごはんを食べたので、二人ともお昼ごはんの時間にはお腹が空かず、お昼ごはんは抜いて早めの晩ごはんを食べることにした。「ねえ、晩ごはんは何?」「鍋にしようと思っています」「鍋! いいわねえ。ポン酢で食べるやつ?」「そう、ポン酢で食べるやつです」「きのこ、入れて欲しいな」「入れますよ。鶏団子を入れます」「鶏団子! あのね、鶏肉に生姜も入れて丸めて欲しいな」「鶏団子に生姜入れますよ。あと長葱も」「きゃーん、おいしそう! あのね、鍋には水菜入れるんだよね? お買い物で買ったから」「そうですよ」「楽しみ!」「すぐ出来ますから、波瑠さんはのんびり待っていてください」「わたし、シーツとかお布団とか、お片付けして待ってるね。それから、こたつで食べたいな、鍋!」「居間で?」「そう、居間で、こたつに入りながら」「いいですねえ」「あのね、卓上のクッキングヒーターがあるのよ。そういうの、準備しておくね!」 千颯が嬉しそうに笑ったので、波瑠も嬉しくなった。 波瑠はシーツや布団を片づけ、それから掃除機をかけた。猫がいるので、こまめに掃除をしなくてはいけない。「にゃー」 キャンディは掃除機をかける波瑠にまとわりついてきて、とてもかわいかった。「ふふ」 掃除機をかけおわると、波瑠は少しキャンディと遊んでから、卓上のクッキングヒーターを出してこたつの上に乗せた。 取り皿やお箸を用意しようと台所に行く。「波瑠さん、鍋出来ましたよ」「ちょうどいいわ! 私も片づけ終わって、クッキングヒーターも出したの」 こたつの上に置いたクッキングヒーターに土鍋を乗せる。 千颯が土鍋の蓋を取ると、ふわっと蒸気が立ち昇った。「いいにおい!」 鍋はくつくつ煮えていて、鶏団子と葱と水菜が入っていた。波瑠が好きな、椎茸とえのき茸も入っていたし、ごぼうのささがきや焼き豆腐も入っていて、湯気を立てていた。「おいしそう!」「昆布出汁で煮たんです」「ポン酢で食べる!」「はい、波瑠さんの好きなポン酢」「そう、このポン酢がおいしいのよね。味が濃くて柚子の味がちゃんとして」 二人は向き合って座り、鍋をつついた。「今日は土鍋をこれに使ったので、ごはんがないんです」「しめにうどん入れればいいと思うの」「そう言うと思って、用意してありま
「ただいま!」 がらがらと古い戸を開けると、「おかえりなさい、波瑠さん」と千颯が出迎えてくれた。 ああ、いつ見てもきれいな顔! それにうちに来てから、肌艶がよくなったみたい、と波瑠は思いながら「今日の晩ごはんは何?」と訊いた。 キャンディが波瑠の足元にすり寄ってきていて、それもかわいかった。「キャンディ、ただいま!」 千颯はキャンディを抱き上げると、にこりとして言う。 「今日は生姜焼きにしました。すぐに食べられますよ」 「きゃーん、生姜焼き! すぐ食べる!」 波瑠は自室に行き、スーツ
波瑠は高速で仕事をしていた。 いつもならもう少し休憩を入れながら仕事をするのだけど、とにかく早く家に帰りたかった。 ああ、今日の晩ごはんは何だろう? ふと、ごはんのことを考える。 じわりと甘いものが胸いっぱいに広がる。 メニューは訊いていない。「ただいま!」と帰ったとき、「おかえり、波瑠さん。ごはん、出来ているよ」と言われ、そのにおいでメニューを想像するのが楽しみだからだ。キャンディと一緒に出迎えてくれる千颯の顔を想像すると、なんとも言えず幸福な気持ちになった。 ああ、幸せ
その日、波瑠は会社に来たときから、お昼を楽しみにしていた。 何しろ、今日はお弁当があるのだ! 昨日、千颯が深刻そうな顔で「波瑠さん、お願いがあるのですが」と言ったときは、てっきりこの、波瑠にはパラダイスな生活から抜け出したいのかと思った。ごはんを作るのが嫌になったのかと。 しかし、そうではなかった。「何、千颯くん」 「お弁当作らせてください。……いいですか?」 「お弁当! いいに決まってるじゃない! ていうか、私こそいいの? って思うけど?」 「はい。……あの、僕の分も作っていいです
千颯との生活はとても静かで、そして快適だった。 「波瑠さん、ごはんですよ」 毎朝、千颯にそう言って起こされる。 襖越しに聞く「ごはんですよ」が嬉しくてたまらない。 毎朝千颯に起こされるのに慣れてしまって、波瑠は目覚ましをかけることをしなくなった。 ごはんですよって起こされるのって、なんて甘美なんだろう……! 波瑠は「ごはんですよ」にうきうきしながら、台所に行く。「今日はパンケーキです。波瑠さん、好きでしょう?」 「パンケーキ! 好き!」 波瑠が席につくと、千颯はパンケーキの乗ったお皿を波瑠の前に置いた。小さなサラダもあり、